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絵画をめぐって 死んでいるのか、生きているのか

最初の一行目を書き出す。
今このステートメントを書く事に困っている私は、とりあえず「最初の一行目を書き出す。」と書いてみた。
この言葉を書く事によって運動は始まり、とりあえず「書く」という事について考える事ができる。
書かれた事を基準に書いていない世界を見る事ができる。

以前、映画を研究している人と話したとき、「映画研究では、何が描かれているかより、何が描かれていないかに気づく事が大切だ」という言葉を聞いて、なるほどと思ったことがある。
「描かれた」ことには、「描かれていない」ことが含まれている。文面通りに描かれた事しか受け取らなければ、世界はとても狭い範囲にとどまってしまう。プロパガンダ映画などはそこを利用した。一方「これはこういうことを言っているように見えるが実はこういう意味がある」などというように裏を読むとか、勘ぐるということは、その事を受け手の知っている事に都合良く引き寄せるという事なので、やはり世界は広がらない。作品を通して世界に触れるには、何が描かれているかだけではなく、その素材、描かれたときの運動、描かれていない事、今見ている環境、その他多くの情報を含めてそのままを受け取って、作品の外からではなく、その中にとどまって共有するしかない。そこには制作者、鑑賞者の明確な区別はないように思う。
制作者が作品を解説するとき、たとえそれが自らの作品であっても、その言葉はもう作品の運動の中にはなく、外側から評論家のように語るものとなってしまいがちである。それは過去の苦労話や、恋愛話をしているような状態にも似ていて、どれだけ話に臨場感があっても、その苦労や恋愛の外から語っている事には変わりがない。そういう点では、今まさに向き合っていることにしかリアリティはない。
今回の作品のモチーフとなったボッシュの《快楽の園》は、左翼にエデンの園、中央に快楽に溺れる人々、右翼に地獄が描かれている。それに加えてそれぞれの細部が何を意味するか読解するいろいろな説がある。しかしこの作品の魅力は、そういった読解したい気持ちも含めて、それらが一元的に収まらないところにあるように思える。固定した意味を超えて、たえず作品の運動をダイレクトに共有できる可能性を持っている。作品に向き合っているというリアリティがある。

今展覧会のタイトルにある「絵画」とは、物質としての絵画のことではなく、霧の立ちこめる山々を見て「絵みたい」と言うときの「絵」のような、もっと掴みどころのない理念としての絵画のことを言っている。そしてその運動の事を示す言葉のたとえとして「死んでいるのか、生きているのか」と加えた。冒頭の〈「描かれた」ことには、「描かれていない」ことが含まれている〉と同様に、「生きている」には「死んでいる」が含まれているのではないか。「生きている」事を基準に「死んでいる」という事があるので、「生きていることは死んでいること」ともいえるのではないだろうか。このようななんとも固定しない言説を絵画をめぐって考えることに重ねている。描いているときの絵画を「生きている」と言うならば、それを止めたとき、完成した絵画は「死んでいる」と言える。しかし絵画を見るときは、たえず運動を共有すると言う点で「生きている」。しかしその運動が永遠であるというのであれば「死んでいる」とも言える。生きながら死んでいる、もしくは永遠に生きている…。
私の作品は、複雑な工程を経ているとよく言われるが、絵画をめぐってそれに近づこうとすればするほどこのようなとりとめのない話のように、収束するのではなく拡散してどんどん迂回していってしまう。しかもそうしていく事で作品は2次的な画像などではなく、その現物を前にしたときにしか運動の中にいられないものになりつつある。しかし、この迂回と直接性に対して根気よく向き合っていくしか絵画に近づけないのではないかと今は思っている。

山田純嗣