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「森へ」

 先日、フィンランドの映画監督アキ・カウリスマキの『街のあかり』を見ていて、場面の合間に森の静止した映像が挿入されているカットがあり、とても心惹かれた。たまたま森をテーマに作品をつくっている最中だったので、森というものに対して感度が上がっていたのもあるが、それを見て同時に小津安二郎の『東京物語』での、尾道の夜明けのカットを思い出した。そのシーンは、東山千栄子の演じる母が危篤と知らされ集まった家族に、保っても夜明けまでだろうと言うことが知らされ、悲しみ、無言で皆が母の床を囲んでいる後、その尾道の無人の夜明け風景のカットが挿入され、次の場面ではもう母は亡くなっている、というものだ。調べるとアキ・カウリスマキは小津安二郎の影響を受けているらしい。『街のあかり』のそのシーンは、小津特有の場面の切り替わりで風景を挿入する手法に倣ったものかもしれない。しかしそれはそれとして、カウリスマキや小津のその風景のカットというのは、ストーリーに没入していた鑑賞者に、そんなときでも世の中は関係なく時間が流れているんだ、とでもいうように示し、冷静にさせると同時にストーリーに深みを与えているように思う。それは鑑賞者が映し出された風景を見つつ、先程までの余韻の中で自分なりの想像を膨らます時間を与えられているためだと思う。大切なものというのは、そこに直接目に見えるかたちで描かれるのではなく、鑑賞者それぞれの心の中に宿るものなのだということを、このことを通して再確認させられた。
 今回、森をテーマに作品をつくったのは、森の不確実性に惹かれたからである。森というものは写真などで見る限りは美しいが、もし現場に居たとしたら落ち着いた気分でばかりもいられない、どこかに何かが潜んでいるかもしれないと、目で見るだけでは認識できない気配のようなものを感じて不安にもなる。仮に目で見える範囲でも、あの枝と枝、葉と葉はどちらが手前で、どの幹に通じているのかなどということも瞬時に判断できないだろう。そのような理解の許容量を超えたとき、自分よりも大きな存在を感じたとき、人はそれに心惹かれるのではないかと思う。先に映画を例に出したように、大切なものは目に見えないということや、決して簡単には理解しきれないということに美の極点を見いだしたいと思っている私にとって、森は理解の許容を超えるという点でもとても魅力的なのである。