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「作品について」

 今のような作品をつくるようになったのは、十代の頃に集中的に描いていたデッサンや油絵などの観察描写がきっかけになっているのではないかと思います。何年も繰り返し描いたり、観ていくなかで、写実をベースにしていても、写真のような忠実さとは別の、ここちよい絵を描くための価値観があるのではないかということが気になりはじめ、写実と絵画の境界にある、絵画を心地よく感じるその価値観とは何かということに興味を持つようになりました。
 良い作品に触れ感銘を受けたとき、写実的であるとかないとかは関係なく、その作品に「リアリティを感じる」という言葉で表せるような漠然とした感覚をおぼえます。「リアリティ」ということについて考えると、「リアリティ」とは思考回路の許容量を超えたときに感じることに源泉があり、目の前にある現実に触れて、その目の前の現実がきっかけとはなっているが、その現実とはまた別のあることに想像や気持ちが及ぶときや、夢のように何かの非現実的な状況の中であっても、その状況に必死に対応しているときなど、その対象に対して切実に対応しているときに共通する部分にあるものではないかと思います。
 私は『インタリオプリント・オン・フォト』と名付けた写真と版画をミックスした独自の技法で作品をつくっていますが、写真とは、写されている対象がその現場に存在していたことを前提としていて、紙切れに写っているものを見て「ああ、こういう風景や人が居たんだ」と、写っている事実を疑いません。絵画は描かれたものであるというイリュージョンを前提としていて、写実的であっても「どうやって描いたのだろう」などと鑑賞したりするでしょう。こういったことは、先程の、目の前にある現実に触れて、その現実とはまた別のあることに想像や気持ちが及ぶとき、といったリアリティに触れていると思います。しかし、このとき気をつけなければならないのは、「こういう風景や人が居たんだ」とか、「どうやって描いたのだろう」といったことを思うことによって、作品を分かった気になってしまうことです。リアリティとは決してそこにあるものが実在したとか、行為の痕跡自体を理解することではなく、それに対して切実に対応することなのです。
 私の作品ではモチーフを自作していますが、モチーフは特別なものではなく、日常的な簡単な記憶や想像のイメージをもとにしています。そういったイメージを自作するのは、視覚は外界にある対象を見ることで感じるだけではなく、何も目で見なくてもイメージを漠然とした「視覚」のようなもので想像しているということに対する興味から発しています。人はその想像のイメージを定着させるために、文字や絵画という方法を使っていますが、そういった想像のイメージを定着させるために何か理解しやすい形に一元化するのではなく、あいまいなそのまま外界に実在させ、イメージを自分から切り離して俯瞰できないだろうか、実在させたその形から、絵画を成立させる価値観を顕在化させられるのではないか、といったことがこの方法をとり始めたきっかけでした。
 一般的に理解されている写真とか版画ではない今のような形式の作品をとおして、絵画を心地よく感じる価値観が何であるのかを探るのではなく、その価値観を提示できる作品にしたいと考え制作しています。

2006年9月 山田純嗣