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絵画をめぐる理想郷と三遠法

最近は3D映画が多く作られ上映されているが、それを初めて見たとき、私は画面に出てくる字幕に違和感をおぼえた。リアルな奥行きを感じさせる空間に唐突に文字が浮いていることが2D映画には無い感覚だった。この文字は空間の奥行きのどの辺りに位置しているのかと、不思議に感じた。このことを絵画に置き換えて考えてみたときに、ルネサンス以降、遠近法を駆使した写実的な表現の画面に文字が描き込まれることがなかったことを思い出す。ルネサンス以前の中世絵画や、キュビズム以降の絵画では文字は絵画の一要素として取り込まれているが、西洋絵画の線遠近法的な表現の中で文字は長らく排除されてきた。なぜならば、西洋ルネサンス以降の絵画では、いかに素材や地を忘れさせるかといったところに力が注がれるからで、そうしたときに、文字はもちろん、イコンや祭壇画などの中世絵画などに多く用いられた金箔の地などは、奥行きの定まらない、遠近感の創出を阻害する抵抗でしかなかった。翻って中国や日本の水墨画では、賛や、落款のように画面に積極的に文字が書き込まれ、それが絵画と違和感なく共存してきた。これは文字を書いた紙に絵画が描かれる、もしくは、絵画が描いてある紙に文字が書かれる、という紙という地と墨による図といった素材の関係に自覚的で、この部分は絵だがこの部分は紙といったような認識が同じ空間を壊すことなく画面内で自然と変換できているからだろう。また、画題も描画法も素材による規定を受け入れていたこととも関係している。
一方、線遠近法は、理論として確立していくうちに対象と画家(=観者)との関係を切り離し、自己と世界との関係を、舞台と観客のように一方向に固定した関係にしてしまった。理論とは言い換えれば誰にでもできるマニュアルのようなものであるが、マニュアルとして外部化してしまうことにより、実感から離れていってしまう気がする。実感がないものから答えを見出そうとすることはかえって難しいことである。例えば、コンパスを回せば、円は簡単に目の前に存在させられるが、数学的に説明しようとしても割り切れない数字になってしまうことや、適当な大きさの紙の中心は、その紙を半分に折ればいとも簡単に導き出せるが、測ろうとしても上手く割り切れる数字になるとは限らないといったように。この例からもわかるように、もともとあらゆるものは理論の外、それ以前から存在する。
絵画を絵画らしく見せるのは、理論ではなく、実体の側にある。素材や地の超克に向かう過程で発生する抵抗、例えば筆致や塗りムラといった、それが描かれたものであるという現実的な痕跡によってである。しかし絵画らしいことと絵画は違う。絵画とは物質的に触れられる実体ではなく、理論でもない、理念にあると私は考える。

今展覧会のタイトルにある「理想郷」とは、自己の内面の想像の世界であり、私はそれを作品を外から観察する視点を示す言葉のたとえ、先に上げた線遠近法の理論にも近いものとして使っている。対して「三遠法」とは外部空間の内側に完全に自らを入り込ませる視点を示す言葉のたとえとして使った。「三遠」は山水画の遠近法の三つの基本的構図であるが、麓から山頂を仰ぎ見る高遠、手前の山から後ろの山を眺める平遠、山の手前から山の後ろをのぞきこむ深遠といった、立ち位置や視点を変えながら対象をひとつの画面内で捉える方法である。ここには線遠近法のような絶対的な主体、客体の区別はないため、観者は自己を忘却し、作品との見る、見られるといった関係の境界も曖昧になる。
「理想」を求めるという欲求は自分を外部におき、出来事の全体を把握したいという私有化の欲求である。私は過去の名画を立体化するということから作品の制作を始めるが、それは、実体のないものに実体を与え、外部からそれを眺めたいという欲求に由来する。しかしそれを写真にすることで、再び実体のない平面にし、その上に版画を重ねることで絵画の実体としての絵肌を与え、最後に表面全体に光沢のある樹脂や反射する色彩を加えて実体の位置を曖昧にするといったプロセスの中で、対象との関係はその都度設定し直され、外部に設定されていた主体は忘却され、気づけば主体は絵画に奉仕するのみとなって、「理想」だったものは「三遠」の層の中に織り込まれていく。こうした転換の繰り返しの運動のなかにこそ、理念としての絵画は立ちあらわれるのではないか、私はそう考えている。

山田純嗣