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「作品について」

「人間の身体があるといえるのは、<見るもの>と<見られるもの>・<触るもの>と<触られるもの>・一方の目と他方の目・一方の手と他方の手の間に或る種の交差がおこり、<感じ—感じられる>という火花が飛び散って、そこに火がともり、そして――どんな偶発事によっても生じえなかったこの内的関係を、身体のある突発事が解体してしまうまで――その火が絶え間なく燃え続けるときなのである。
―― M・メルロ=ポンティ 「目と精神」より

 制作にあたっては常に相反する二つの関係を意識しています。自分の内側の世界と外界の現実、虚像と実像、身体性と非身体性…、<外>との関わりについては作品と切り離して考えることができません。また、制作過程においても、あるものが自然に生成していくときに、自分が関わることによってそこに変化が生まれることや、自分が作ったものが他者の力によって姿を変えることにとても興味を持ちます。そのようなことから、制作を作業化したり、写真の現像の工程、腐食の工程など、制作を他者にゆだねながら進めていき、自己の無限の自由をあえて制限し、制限されることによって、成せること、成すべきことを明確にしながらイメージをつくり上げていきます。また、そのような形式を用いて<内>と<外>が交わる瞬間を探りながらイメージをつくり上げています。
 作品の視覚性については、重なり合った写真と版のイメージによって、写真で認識される3次元空間と、絵画の2次元空間との間を視線が行き来し、現実と絵画(虚構)を同時に、あるいは交互に感じる世界を模索しています。制作工程としては、まず、記憶やイメージをイメージとしてそのまま絵画として作品化するのではなく、一度立体として具現化します。自分の内面にあったイメージを外界におき、それを自身の視覚を通してはっきりと認識します。その視覚体験の定着として写真を撮りプリントします。そして、そのプリントの上に銅版で作ったイメージを重ねる。これは視覚体験をから得た情報を絵画によって表現するときの行為にあたります。このような工程を経て、<見る―見られる>の関係を複雑に繰り返していきます。

 今のような作品をつくるようになったのは、十代の頃に集中的に描いていたデッサンや油絵などの観察描写がきっかけになっているのではないかと思います。何年も繰り返し描いたり、観ていくなかで、ここちよい絵を描くために、写実をベースにしていても、写真のような忠実さとは別の絵画特有のある価値観が自分の中にできあがっていることに気がつきました。写実と絵画の境界にある絵画を心地よく感じる価値観とは何かということに興味を持つようになりました。そこで、平面であっても明らかに違う点を持つ写真と絵画のリアリティということについて、興味を持って考えるようになったからです。写真とは、写されている対象がその現場に存在していたことを前提としていて、紙切れに写っているものを見て「ああ、こういう風景や人が居たんだ」と、写っている事実を疑いません。絵画は描かれたものであるというイリュージョンを前提としていて、写実的であっても「どうやって描いたのだろう」などと鑑賞したりするでしょう。しかし、リアリティというのは、そこにあるものが実在したとか、行為の痕跡自体にある訳ではないような気がします。絵を描くとき、人は絵画として成り立たせるために、何かしらの操作をしていると感じます。私は絵画として成り立たせる何かしらの部分に言葉ではあらわしにくいリアリティが潜んでいるのではないかと考えています。今のような形式の作品をとおして、その何かしらが何であるのかを探るのではなく、何かしらを提示できる作品にしたいと考え制作しています。

2006年1月 山田純嗣